男子出産の「重圧」を背負わされた藤原威子
紫式部と藤原道長をめぐる人々㊼
■後一条天皇は威子以外の入内を拒んだ
藤原威子(たけこ/いし)は999(長保元)年12月23日に藤原道長の三女として生まれた。母は源雅信の娘である源倫子。同じ母を持つ姉に藤原彰子、藤原妍子(きよこ/けんし)、同じ母を持つ兄に藤原頼通(よりみち)、藤原教通(のりみち)がいる。
1012(長和元)年8月に尚侍に任官。姉の妍子の後任というだけでなく、入内することが決定づけられた任官だったらしい。威子の当時の年齢は14歳。道長としては、長女・彰子が生んだ敦成親王に威子を入内させる意思が早くからあり、それを内外に知らしめる目論見があったとする研究もある。
時の天皇である三条帝は、1016(長和5)年正月に敦成(あつひら)親王に譲位。外孫となる敦成親王すなわち後一条(ごいちじょう)天皇を支えるべく、道長は摂政に就任した。わずか9歳の天皇は、1018(寛仁2)年正月には11歳で元服を迎える。
こうして、威子は同年3月7日に後一条天皇に入内。9歳という年齢差、そして甥と伯母という関係の婚姻は、今日と違って摂関政治の時代にはさして珍しいことではなかった。同年10月16日に中宮となる。
彰子が太皇太后、妍子が皇太后、威子が中宮という前代未聞の「一家三后」が成立したことがよほど嬉しかったのか、長い文章を道長は日記に書き記したという。彰子や妍子の立后の日の記述に比べ、はるかに長いものだったらしい。なお、道長の残した「望月の歌」は、威子立后の儀式の夜に詠まれたものだ。
道長が栄華の極みに酔いしれる一方、威子の両肩には一家の繁栄を保つための重大な使命が課せられたともいえる。入内した娘たちは、皇子の出産を切望されていたからだ。
彰子は敦成親王(のちの後一条天皇)と敦良親王(あつながしんのう/のちの後三条天皇)を出産しているものの、妍子は皇女・禎子(ていし)内親王を産んだきり、子がない。妍子の夫である三条天皇はすでに崩御していた。妹の藤原嬉子(よしこ/きし)は敦良親王に入内して親仁(ちかひと)親王を産んだが、出産後まもなく死去している。
一家の繁栄を絶えさせないためには、威子も皇子を産まなければならない。そんな重圧のなか、1026(万寿3)年に威子は懐妊。同年12月9日に産まれたのは、皇女・章子(しょうし/あきこ)内親王だった。
出産後に命を落とした嬉子のことが脳裏をよぎったからか、道長も、後一条天皇も、皇女であることはともかく威子が安産だったことに胸をなでおろしたようだ。道長は「命が延びた思い」と本音を漏らし、後一条天皇は産まれたのが「姫君で残念」と落胆する女房を叱りつけたという(『栄花物語』)。
とはいえ、皇子誕生を心待ちにしていたに違いない道長は、翌1027(万寿4)年に死去。威子は再び懐妊したものの、1029(長元2)年2月2日に産まれたのは、やはり皇女(馨子/けいし/かおるこ/内親王)だった。
このままでは後一条天皇の皇統が断絶するとの危機感を覚えた兄の教通や、異母兄の藤原頼宗(よりむね)らは、自身の娘を入内させようとしたようだが、天皇の意思により頓挫したらしい。一般的に后の威子に対する気遣いと解されている(『栄花物語』)が、当時の天皇が自分の皇統を途絶えさせる危険性を高めてまで他の后を拒むことがあり得るのか、疑問を呈する声もある。
その胸の内を知る由はないが、1036(長元9)年に後一条天皇は崩御。享年29だった。後継を指名する時間もない、突然のことだったという。
崩御の5か月後となる、同年9月6日に威子も後を追うようにして死去。当時流行していた天然痘が死因だった。享年38。
後一条天皇の皇統が途絶えたことで、隆盛を誇った摂関政治が、いよいよ終焉を迎えようとしていた。
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